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2016年11月19日土曜日

身近な人から受けたトラウマ

人によってもたらされたトラウマを「対人トラウマ」という。




対人トラウマは、自然災害や交通事故、たまたま巻き込まれた犯罪などとは異なる特徴を持ちます。

特に、身近な人から受けたトラウマは、より深刻な意味を持ちます。

子どもの虐待などの場合には、「逃げ場がない」という構造も大きな問題なのですが、身近な人によるトラウマの場合、その最大の問題は「信頼されていた人から裏切られた」ということだと思います。




例えば・・・

治安の悪いところを歩いていてひったくりに遭うのと、心から信頼していた人から性被害に遭うのとでは、意味づけがかなり変わってくるものです。

もちろん、ひったくりに遭うことそのものは暴力的な怖い体験ですし、それからも外を歩くときには苦しみが続くでしょう。

しかし、そこにある大きな救いは、

「治安の悪いところは避けよう」
「危ないところに行くときは、信頼できる人について行ってもらおう」

という対処法を考えられることです。

一方、心から信頼していた人から性被害に遭う、という体験をしてしまうと、どうやって人を信じたらよいのかがすっかり分からなくなってしまいます。

それまでは自分なりに「こういう人は信じられる」という基準(家族・親戚・小さい頃から知っている人・社会的な地位がしっかりしている人・・・など)を持っていたのですが、それが根底から崩れてしまったわけですから、新たな安全のルールを見出すのは簡単なことではありません。

とりあえずは、「誰も信じられない」という感覚の中、ルールがわからないまま、相手の顔色からできるだけ安全を読むという形で暮らすしかなくなりますが、それはとても苦しい人生です。

どんなにニコニコしていても人はいつ豹変するかわからない、そして、自分の力でそれをコントロールすることはできない、という状況が、どれほどの緊張感と負担を強いるか、分かると思います。




このように「他人への信頼感」が根底から損なわれるのが身近な人によるトラウマなのですが、さらに深刻なのは、「自分への信頼感」へのダメージです。

身近な人によるトラウマの場合、それがあまりにも異常なことであるため、自分側にも非があったのではないかと感じることがとても多いのです。

例えば、虐待された子供に典型的な感じ方は、自分が悪いから親が怒るのだというもので、「上手くできない」自分にいつも罪悪感を持って育つことになります。

この感じ方は、加害者である親が、「お前はどうして上手くできないのだ」というメッセージを出している場合に加速されます。

性的虐待の場合も、自分が誘ったのではないか、自分側に相手をその気にさせる何かがあったのではないか、と思ってしまう人が多いのです。

この場合も、加害者が同様のメッセージを出している場合が多いですし、やっとの思いで打ち明けた大人がそういう目で見てくるということもあります。

トラウマ体験の発生のみでなく、その結果として自分が損なわれたという感覚も強いため、さらに「自分への信頼感」はダメージを受けます。

性的虐待に遭った人は自分が「汚れている」と感じることが多いですし、その話を他人に打ち明けることで、他人に毒が伝わるように感じてしまう人もいます。

自分が永遠に損なわれてしまったという感覚は、このようなときの症状として表われるものであり、「自分への信頼感」を根底から奪うものになります。

「他人への信頼感」と「自分への信頼感」は、表裏一体という部分もあります。

自分が働きかけることで相手が変わってくれる、というコントロール感覚は、「他人への信頼感」にも「自分への信頼感」にもつながります。

虐待やDVのように、予測不可能で、相手の機嫌のみが指標となるような暴力は、この基本的な信頼感を根底から破壊するものであり、他人も自分も信じられないということになってしまいます。

このような対人トラウマからの回復は、新たな安全ルールを見出すという長いプロセスを必要とします。

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